天才科学者とその有能なる助手の話D
+++月夜の旅人(下)+++

 廊下で待つのにそろそろくたびれてきた時、不意に背後の扉が開いて、 寄りかかっていた私は、あと少しで後ろに倒れてしまうところだった。

「待たせたね。」
「いえ……。」

 戸を開いてから、浴室の壁により掛かって座っているライドルさんを抱き上げに戻る。
 わきに退いた私の隣を通り過ぎる先生の横顔が、一瞬間近に見えた。やはり、泣いていたのだろう、眼の周りが少し赤いようだった。
 擦れ違ってからも同じ場所でぼんやりと立ったまま、彼の後ろ姿をじっと凝視していた私に、ライドルさんが、ふと困ったような笑みを浮かべる。

「リビングのソファでいいかな。セパラック、ハンカチを敷いてやって呉[く]れるかい。この無精、掃除をしてないようでね。」
「無精とは酷いなぁ。」

 顎で埃をかぶったソファを指されて、ライドルさんはくすくすと笑った。
 彼の身体は、最早立つことすらままならないと、来たときに聞かされている。掃除など、出来るはずもないのは先生だって分かっているはずだ。分かりながら、そう私に云ったのだ。
 私がポケットから出したハンカチを広げると、先生はゆっくりとその上にライドルさんを座らせた。
 肩に掴まった折れそうに細い指が、するりと襟衣[シャツ]の上を滑って落ちる。
 思わず手を伸ばしかけたけれど、それより先に先生の手が倒れかけた背に回された。

「……っと、大丈夫か。」
「あ、ああ、すまない……。」

 どうにか、彼を座らせると、先生は落ちてきた前髪を後ろに流しながら、部屋を見渡した。

「筺[はこ]はどこだい?」

 筺[はこ]? 一体何の話だろう。

「ああ、寝室だ。布を被せてあるから、綺麗だと思うけれど。」
「分かった、寝室だな。セパラック、僕と一緒においで。」
「はい。」

 
* * *

 
 どうやら、先生はこの家をよく知っているらしい。迷わずに家の奥へと進み、手招きで私を階段の処[ところ]へ呼んだ。
 やはり埃を被ったステップの軋む音を聞きながら、ゆっくりと上に上がる。
 昇りきってすぐの所にあった戸を開いて、先生はその中に入った。

「君は其処[そこ]にいてくれ。今から荷物を運ぶから其方[そちら]側を持って。」
「あ、はい。」

 部屋に足を踏み入れかけて、引っ込める。
 殺風景な部屋の中にベッドと、もう一つ、白い布をかぶった大きな筺[はこ]
 先生は少し顔を顰[しか]めながら片側を持ち上げた。慌てて私も筺[はこ]に手をやる。

「重たくないが、持ちにくいな……。セパラック、矢張[やは]り此方[こちら]側に回ってくれ。」
「え?」
「その方が安全だ。」

 成る程、階段を後ろ向きに下りるのは、私では危ないということだ。
 先生の方が力があるのは明らかなので、大人しくそれに従う。
 少々狭く感じる廊下で何とか位置を交代し、布ごと筺[はこ]を持ち上げた。

「人が横になって入れそうですね。」
「それはそうさ。その為に有るんだから。」
「……え?。」

 意味がよく分からず聞き返した私に、先生はまた困ったような悲しい顔を見せる。

「棺なんだよ、これは。」
「棺……。」

 じゃあ、先生たちの云っている"旅立ち"は……。

「さあ、此[こ]れを玄関先まで運ぶよ。気をつけて、ゆっくりだぞ。」
「……はい。」

 それ以上を聞くことなど出来る訳がなく、私は彼を送り出すために必要なのであろうその真っ白い筺[はこ]を、先生と一緒に月光の下[もと]へと運んだ。

 
* * *

 
「セパラック」
「はい」

 玄関前に筺[はこ]を置き、私たちはまた家の中へ戻った。これから如何[どう]するのだろうと、不安に思ってると、先生が微笑みながら僕を呼んだ。

「ライドルに紅を塗ってやって呉[く]れるか、持ってきただろう。」
「え、ええ……」
「盛大に塗ってやって呉[く]れ。」
「おいおい、俺は玩具[おもちゃ]じゃないぞ。」

 笑いながら云った先生に、彼も同じ表情で笑い返す。紅[べに]の封を外しながら、胸がきゅうと締め付けられるような感覚に気付く。
 不可[いけ]ない、こんな顔をしていては二人を困らせてしまう。
 私は小さくかぶりを振って、零れそうになった涙を止めた。

「それでは、失礼して。」
「はいはい。」

 左手を顎に添えて、紅筆を唇の上で滑らせる。触れた肌がひどく冷たくて、そして、はっきりと骨の感触がするその頬に愕[おどろ]いて、 思わず手を引きかけたが、二人には気付かれなかったようだ。
 血の気のない白い唇に紅をのせると、ほんの少しだけ顔色が良くなったような錯覚を受ける。
 屹度[きっと]、その為に紅を差すのだろうけれど。

「……此[こ]れで、宜しいですか?」
「有り難う、セパラック君。」
「いえ……。」

 其[そ]れきり、先生もライドルさんも黙ってしまった。互いに言葉を探すように、目線を彼方此方[あちこち]に遣りながら、髪を掻き上げ、小さな溜息を吐[つ]いたりする。

「君は……」
「そろそろ良いかい。もう、時間が無い……。」

 先生は視線を別の方に向けたまま、何か言いかけたが、リビングの壁に掛けられた時計を見ていたライドルさんがそれを遮った。

「あ、ああ…。そうだな。セパラック、玄関を開けて呉[く]れ。」

 扉を開くと、やけに月の光が明るかった。目が眩む程ではないけれど、まるで……月がこの場所にだけ、もう一つあるようだ。
 眼下に広がる海が光を反射して、更に辺りを明るく見せる。

「歓迎されているようだね。」

 背後から聞こえたライドルさんの声に慌てて、横に退く。あまりに幻想的な風景に、私は呆然とその場に立ちつくしていたのだ。
 あの天から光の舞い降りてきた夜を思い出すような、輝く夜……。
 先生は、抱えたライドルさんをゆっくりと白い筺[はこ]の中に下ろし、そのまま筺[はこ]の傍[かたわ]らに腰を下ろした。
 目配せをされて、私もそれに倣[なら]う。

「おめでとう、ライドル。旅立ちが美しき夜であることを祝うよ。」
「有り難う。」
「幸福なる旅を」

 また先生が此方[こちら]を向く。

「幸運、なる旅を……。」
「有り難う、二人とも。」

 彼が幸せそうな微笑みでそう返すのと同時に、突然、目を開けていられない程の強い風が舞った。
 空気の動く音が耳を叩いていく。
 他の音が何も聞こえない、眼も開けられない。私は肩を支えている腕に顔を沈めて、風が止むのを待った。

「…………っ。」
「大丈夫かい、セパラック。」
「は、はい。」

 漸[ようや]く風の気配がおさまり、私は恐る恐る目を開けた。

「え……?」

 視界いっぱいに広がるのは、小さな光の粒。そして、月から注ぐ光の道。其[そ]れらが辺りを輝くばかりに照らしている。
 はっとして白い筺[はこ]の中を覗くと、それはもう空っぽになっていた。

「さようなら、ライドル……。」

 光の粒は月光の道へと緩やかに吸い寄せられていく。
 先生は、ずっと、その粒が天へと昇り、見えなくなるまでずっと空を見上げていた。