天才科学者とその有能なる助手の話C
+++月夜の旅人(中)+++
カランカラン
先生の研究所と同じ、ドアベルの音。
「ライドル、着いたよ。」
「お邪魔します。」
『こっちだ、入ってくれ。』
玄関からすぐ、右手の部屋から電話と同じ声が聞こえた。
先生がゆっくりとドアノブを回して戸を開くと、奥の机の前で細く真っ白な青年が椅子に座っていた。
「早かったな。」
「ああ。……随分痩せたね。」
初めて見た先生の友人は電話の時とだいぶ印象が違う。
銀色の短髪に緑眼の青年は、とても弱々しかった。機械越しに聞いた声は、明るくはきはきとしていて、とても健康そうに聞こえたのだけれど。
こうしていると分かる。彼に見える影。
「早速で悪いけど、始めてくれるか。……もう、自分では立てないところまで来たみたいでな。」
「分かった。」
短く答えて先生はライドルさんに歩み寄り、ひょいと抱え上げた。
「軽いな。」
一瞬、泣きそうなほど哀しい顔をして、呟く。
「セパラック、手伝ってくれ。石鹸は持って来ただろう。それと、着替えを鞄から出してくれ。小さいポケットから、碧の小瓶も」
「は、はい。」
「俺の水浴を手伝って貰うんだ。厭[いや]だったら云ってくれよ。」
「彼は云わないよ。優しい子だからね。」
いつもの先生とは思えない一言に、驚きながら私は鞄から云われた物を取り出した。
石鹸と、黒い襟衣[シャツ]に白のジーンズ、それにミツヨレイの入った小瓶。
最後の一瓶だ。
「ああ、自己紹介がまだだったね」
廊下に出た先生の腕の中から、彼は私の方に視線を寄越した。
長い睫毛に覆われた穏やかな瞳。
「俺はライドル。君の先生の……昔の友人、かな。同郷の出身なんだ。子供の頃から世話になっていてね。」
そう云って、笑った彼に見えたのは、間違いなく牙だった。
「狼の牙……」
「当たり。同じ里の人間だからね。」
「僕の助手くんにあまり余計なことを話さないでくれるか。」
「おっと、これは失礼。昔のお前のことなんて、教えたら可哀想だものなぁ。」
「落とすぞ。」
先生は、ライドルさんを抱えたまま、右手で浴室の扉を開けた。
使われていないのか、中には石鹸も何もなかった。新しいままの状態だ。
「セパラック、着替えはそこに置いて、湯船に水を張ってくれ、それからそこにミツヨレイを一瓶すべて入れて。」
「はい、分かりました。」
片手でライドルさんを支えている先生の横を急いですり抜け、私だけ先に浴室の中に入った。
その間に、先生は彼を膝に寄りかからせる形で脚の間に座らせ、襟衣の釦を外していく。
白い肌から浮き上がった鎖骨や肋骨が、彼を侵す影の昏[くら]さを示していた。
私の方からは、先生の表情は見えないけれど、ライドルさんが泣き出しそうな苦笑を見せていたので、先生は屹度[きっと]、彼以上に哀しい貌[かお]をしているに違いなかった。
カランの蛇口を大きく拈[ひね]って、水を張る。
水が落ちていく音に時折、微かに衣擦れの音が混ざる。二人の様子を見ていられなくて、私はぼんやりと水の淵を見つめていた。
「セパラック、ミツヨレイを入れたら廊下で待っていてくれ。」
私に背を向けたまま、先生は絞り出したように掠れた声で言った。
「君に情けない姿を見られたくないんだってさ。」
「ライドル……!」
「解りました。」
咎める声が震えていて、私は視線を水面に戻しながら短く答えた。
彼は言わなかったけれど、たぶん、泣いていた。