天才科学者とその有能なる助手の話B
+++月夜の旅人(上)+++


 少し肌寒い夜のことだった。
 私と先生が実験器材を片付けている時にその電話は鳴った。

「セパラック、出て呉[く]れるかい。」

 先生は丁度、長いコードの巻き取りの最中で手が離せない。
 持っていたフラスコを急いで棚に置き、電話に走る。

「は、はい。スナイ科学研究所です。」
『あ、俺はライドルって云うんだけど、博士は居るかい。』

 受話器の向こうからは、低く穏やかな男性の声がした。まだ若い。
 ちらりと先生の方を見ると、何か言いたげに視線を寄越している。
 私が店台[カウンター]に立ったり電話の応対をしたりすると、如何[どう]してか決まってそんな表情をしてみせるのだ。

「少々お待ち下さい。」

 断って保留釦[ボタン]を押す。

「先生、ライドルさんとおっしゃる方からですよ。」
「え……、ライドルから? え、あ、済まないが此[こ]れを替わって呉[く]れるかい。」
「はい。」

 左手にコードを受け取りながら、受話器を差し出すと、先生は私の手ごと掴んだ。
 驚いて、咄嗟に腕を引く。
 先生は目配せで謝り、電話に向かった。
 如何[どう]にも様子が変だ。

「もしもし、ライドルか、久し振りだね。」
『ああ、そっちは元気そうだな。』
「お陰様でね。……君は……。」
『今夜、発つ。』
「そうか、……早いものだね」
『仕方のないことさ。勿論、来ててくれるだろう。』
「うちの助手も一緒でいいなら。」
『ああ、是非とも。君しか呼ぶ奴がいない寂しい男だからな。』

 思わず、耳がぴくりと反応する。
 実は先刻[さっき]から会話は丸聞こえなのだ。
 私のこの耳で聞くなという方が無理な話。先生も其[そ]れを知っていて、聞かれて困る話は別室でするから、今回も大丈夫だと思うのだけど。

『では、待っているよ。』

ガチャン。

「聞いてのとおりだ。来られるかい。」

 私がコードを巻き終えたところで、先生はそう私に尋ねた。
 そんなつもりはないのだろうが、盗み聞きを咎められたようで、少々居心地が悪い。

「……行きます。」

 既に私は行くことになっていたようにも思うが。

「では、すぐに準備をしなくては。君は白い襟衣[シャツ]に着替えておいで。出来るなら、飾りのないものを。下は何でも良い。それから、新品の石鹸を一つ見つけておいてくれ。ああ、紅[べに]の一つでもあればいいのだけど……」

早口に捲し立て、先生は実験器具をそのままに研究室を出ていった。

 
* * *

 
 白い木綿の襟衣[シャツ]に着替え、洗面台の下から新品の石鹸を取り出し、余計な世話かと思ったが、口紅も用意した。
 私が故郷を出る時、何故か幼なじみの少女が餞別[せんべつ]だと云って、私に寄越したものだ。
 無論、私にはそんなものを使う必要も趣味もないので未開封のままなのだが。
 それにしても、先生は此[こ]れを如何[どう]するつもりなのか。

「セパラック、用意は良いかい。」

 彼は、私と同じように白い襟衣[シャツ]に着替え、下には珍しくジーンズを穿いていた。
 長めの前髪は後ろに流されており、いつもとだいぶ印象が違う。

「石鹸と口紅、用意しましたよ。」
「ああ、有り難う。」

 ネクタイを締めながら、先生は二つを使い慣れた鞄に放り込んだ。
 僕が口紅を持っていることに疑問を持つ余裕すらない様子で、研究室の棚を引っ掻き回し始めた。
 一体これを何に使うのか尋ねたかったのだが、此方[こちら]の声はまともに届かなそうだったので諦める。
 先生は、棚の奥の方から碧の小瓶を幾つか取り出し、鞄の側面にある物入れに仕舞った。
 室内の何箇所かを指差して忘れ物がないか確認すると、先生は私に向き直った。

「それでは行こうか。今日は車で行くよ。………何だい、その顔は。」
「何でもないです……」

 云いたくないが、先生の運転はとても下手くそなのだ。

 
* * *

 
 がたがたと車に揺られて、一時間ほど。
 街から森を通り、湖の傍を抜けて、広い草原の先に見えたのは蒼い海だった。
 岬に一件だけ家の建っている他は、何もない。

「あれが、彼の家だよ。」

 急な曲がり道に荒くハンドルをきりながら先生が呟くように云った。
 ライドルさんと先生は、一体どんな間柄なのだろう。大変失礼だが、電話一つでこんなに大急ぎで駆けつけようとするほど仲のよい人が、先生にいるなんて思わなかった。

「おいおい。そんなに鞄を強く抱きしめないでくれ。中には割れ物が入っているんだ。」
「あ、ごめんなさい」

 云われて、いつの間にか腕に力が籠もっていたことを知る。
 力を緩めた途端、急ブレーキが掛かり、私は一気に前につんのめってしまった。

「おっと。」

 気付いた先生が、咄嗟[とっさ]に腕を伸ばして支えてくれる。

「大丈夫かい。」
「はい。ぶつけても抱きしめてもいませんから、割れていないはずです。」
「そっちじゃない、君の話だよ。怪我はないかい。」

 先生に苦笑を浮かべられ、赤面するのが自分でも分かった。

「平気です……。」
「急に停まって済まなかったね。着いたよ。」

 肩に置かれていた手でそっと押して、私をシートの方に倒してくれる。
 少し頬を火照らせたまま、荷物を抱えて外に出ると、家はまだ遠かった。

「ここからは、歩くんだよ。途[みち]が細いから。」
「……はい。」

 何故だか、恥ずかしくて仕様がない。
 私はライドルさんの家に着くまで、ずっと俯[うつむ]いていた。