天才科学者とその有能なる助手の話A
+++訪問者と薬+++
カランカラン。
あまりにも久し振りに聞いた音だったので、一瞬何だか分からなかった。店側の入口のドアベルの音だ。
「いらっしゃい」
耳聡い少年はパタパタとスリッパを鳴らしながら応対に向かった。
「こんにちは、何がご入り用ですか。」
壁を挟んだ向こう側から、澄んだ少年の声がする。
いつもと随分態度が違うではないか。
何となく不愉快な気分になりながらも、僕は補助なしのまま実験を続けることにする。
「……あの…………。」
客の方の声は小さくて何を言っているのか分からないが、どうやらまだ少年のようだ。セパラックと同じ年頃だろうか。
久しぶりの客が何を買いに来たのかが気になって耳を澄ませてみるが、殆[ほとん]ど何も聞こえない。
僕の研究所は、更に高度な発明のために必要な経費を賄うため、ごく小さな店を営んでいる。
扱っているのは薬から小型電気製品など多岐に渡る。
此れらは全て僕が作成したもので、天才科学者だからこそ可能であったことだ。
心の中で正々堂々と胸を張りながら、調合する薬の入った瓶をゆっくりと試験管に傾けた。
「博士、来ていただけますか。」
「……おっと。」
あと少しで手元が狂うところだった。
困ったような声に呼ばれ、仕方なく僕は碧い小瓶に蓋をし、白衣のポケットに突っ込みながら店台[カウンター]に入った。
「あ、博士、この子が……。」
眉を寄せながら彼が指差したのは、猫眼の中等科くらいの少年。
猫眼の少年は助手以上に泣きそうな顔をしてゆっくりと切り出した。
「……あの、先生。弟の具合が悪いんです。診ていただけませんか。」
「だから、博士はお医者様ではないと……。」
成る程、それで彼はいつものように先生と呼ばないのか。
「今日は、お医者さまが別の街に出かけていてお留守なのです……。
先生は医学の勉強もなさったと聞きました。どうか、お願いします。」
少年は、両手を胸の前で固く握りしめて訴えた。
このまま放っておいたら本當[ほんとう]に泣き出しそうだ。
「……分かった。行こう。」
「ちょっと、せん……、博士!」
「その代わり、自信はないよ。ただの科学者だからね」
僕が自分を”ただの”と云ったことに、セパラックは驚きを隠せない様子で、大きく眼を見開いた。
失礼だよ、助手くん。
「本当ですか。ありがとうございます。」
猫眼の少年は、僕の手を固く握りしめ、今度は溢れんばかりの笑顔で云った。
* * *
今、ぐいぐいと僕の腕を引っ張っている猫眼の少年は、ノマと名乗った。弟はユレイと言うそうだ。
「そんなに急かさないで呉[く]れないか。助手は脚が速くないんだよ。」
彼はもともと脚が遅い上、診療のための荷物を背負っている。
店で容態は聞いたのだが、どうも埒があかなくて、とりあえず僕の所有する殆どの医療器具を持って来たのだ。
「先生……。だから私の、脚はそんなに遅くないと……。」
街で一番長い階段をずっと登り詰めで、セパラックの息は完全に上がっている。
「仕方のない助手だな。貸しなさい。」
鞄を持ち上げると、ずっしりとした感覚があった。
荷物を一つに纏めてしまったのが不可なかった。せめて、二人分に分けておくべきだったと今更気付く。
僕にも少し負担になる荷物は、セパラックにとってはかなりの重さだったろう。
「え……あ、有り難うございます。」
「僕こそ、悪かったね。」
どうやら、謝罪は突然過ぎたらしい。
彼は、きょとんと瞬きをして、不思議そうな顔つきのまま、「お気になさらず」と答えた。
「先生、ここが僕の家です」
着いたのは、まだ新しい二階建ての家。壁は明るい橙で、窓枠は落ち着いた赤色をしている。
四人家族が暮らすには丁度居心地の良さそうな雰囲気だ。
玄関に通されて、ふと気付く。
「ご両親はどちらに。」
「この家には僕と弟の二人だけです。」
「それは失礼……。」
「いえ。」
流石[さすが]に、この年の子供たちが二人で暮らしているなどとは思いつかず、考えなしの質問をしてしまった。
隣にいたセパラックが、僕から荷を受け取りながら、責めるような視線を寄越す。
「ユレイ、入るよ」
玄関からすぐ左にある扉をノマが叩く。
「あ、兄さん……、お帰りなさい。」
幼い子供の声が扉越しに聞こえた。
扉を開けたノマに促されて部屋に入ると、其処[そこ]には寝台[ベッド]に横たわっている緑髪の少年が居た。
兄よりも三、四歳幼く、恐らく初等科の生徒だろう。
「本當[ほんとう]に、お医者様を呼んできたの。」
「だって、心配じゃないか。」
呆れるような弟の言葉に、ノマは少し唇を尖らせる。
「こんにちは、ユレイ」
「あ……、こんにちはドクター」
ユレイは僕と眼が合うと、慌てて壁側を向いた。
ドクターでないことは、黙っていた方がいいだろう。
「体の具合はどうなの。」
「お腹が痛いだけだよ。大したこと、ない……。」
消え入りそうな語尾に、病気の正体が何となく掴めた。
少年に近づいて、軽く腹部を撫でる。
「どれどれ……、おや。」
僕はいかにも愕[おどろ]いた風に肩を強ばらせ、傍[そば]にセパラックを呼んだ。
耳元で声を潜めると、彼は厭[いや]そうに顔を顰[しか]めつつも頷く。
「ノマ、少し外に出ていてくれるかい。」
「え、あの……。」
「先生がああ仰っていますから。」
困惑しているノマの腕を、強引に引っ張って外に連れ出す。上手いものだ。
さすが、いつも僕の脚を引っ張って邪魔ばかりしてくれるだけある。
「……あのう、先生。」
「お兄さんは、いつも働きに出ているんだろう。」
「え……?」
質問の意図が掴めずに、ユレイは言葉を詰まらせた。
「構って欲しかったんだろう?」
医者として来た僕を見て、慌てたのはその腹痛が”仮病”だったからだろう。
問いかけに、ユレイは小さく俯いて答えた。
まだ幼いのに、独りで残されるのは寂しくて堪らなかったに違いない。
この家は、子供二人には広すぎる。
「では、今日だけだ。良いかい、この瓶を置いていくよ。今晩呑んで、明日の朝には元気になるんだ。
そうだね……半分で良い。残りの半分はまた、”具合が悪くなった”時に使いなさい。」
「……先生。」
「どうしても傍[そば]にいて欲しい日もあるだろうさ。」
「……ありがとう、先生。」
少年は、頬を掻きながら微笑んだ。
* * *
「先生、せっかく苦労して集めたミツヨレイの小瓶、どうしてあげてしまったんですか」
特に苦戦していたセパラックは、悔しそうに僕にそう迫った。
長い長い階段は、余計な会話を増やしてくれる。
「良いんだよ、また集めに行くから。……君も来るだろう。」
「もちろん、行かせていただきますよ、先生の行く処ですから、付いて行かないと何があるか。」
そうは言ってみせるものの、ミツヨレイが降る時のあの幻想的な魅力に負けたに違いない。
ああ、やはり悔しい。
「今度はもっとたくさん瓶を持って行くとしよう。そうしたら、君にも呑ませてあげられるよ。」
「私、呑みたいだなんて云ってませんけれど。」
「僕が呑ませてやりたいと思ったんだよ。とても旨味[うま]いんだよ。」
「この前は旨味[おい]しくないって聞きましたけど。」
「おや、そうだったかな。」
どうしてか、セパラックはとても嬉しそうに微笑んだが、僕はそれよりも重たい荷物で右肩が痛かった。