天才科学者とその有能なる助手の話@
+++ミツヨレイ+++


「先生、どちらに行かれるんですか。」

 研究室から廊下へ繋がる扉を開けようとしたところで、後ろから有能なる助手セパラックに肩を叩かれた。

「やあ、助手くん。今日は天気が良いね。」
「そうですね、こんな日は研究も進みますね。」

 僕は天才科学者たる威厳を持って堂々と云ってみたが、非常に有能なセパラックは話題を変えさせては呉れなかった。
 彼は不機嫌な時にする癖で、ぴょこぴょこと長い耳を前後に揺らしながら、僕が再び机に向かうのを待っている。
 そう、我が助手はウサギの耳を頭に生やした大変可愛らしい少年なのだ。
 だが、如何[いかん]せん堅物すぎる。

「どうだろう、こんな素敵な空の日は息抜きに散歩でもしようじゃないか。」
「先生は毎日息抜きばかりなさっているじゃありませんか。ですから、今日は研究をしましょう?」

 最高の微笑みを浮かべた彼の姿はさながら天使のようであった。
 しかし、それしきで揺らぐ僕ではない。

「ならば矢張[やは]り外へ行く。セパラック、付いてきたまえ。」
「は? ……ちょっと、先生!」

 今日は外に行くと決めたのだ。
 止めようとするセパラックの声を無視して、僕はさっさと身支度を始めた。

「まったく……。仕方のない人ですね」

 彼は態[わざ]とらしく溜息を吐いて、私の傍[そば]に寄った。

「今日は私が付いて行きます。散歩が終わったらちゃんと仕事していただきますからね。」
「残念、今日は仕事も兼ねているのさ。」

 露骨に驚いたセパラックの態度に苦笑しながら、白衣のポケットに入っているものと同じ碧色の小さな硝子瓶を二つ、棚の奥から取り出した。

「これは君の分だ。持っていなさい。」

 受け取り、セパラックは不思議そうに首を傾げたが、何も尋ねてはこなかった。
 言われた通り、上着のポケットに瓶をそっと仕舞う。

「さて、では行こうか」


*  *  *


 結局、のろのろと歩くセパラックに合わせたせいで、目的である丘に着いたのは、陽が暮れてから一時間以上経っていた。

「君は遅いねえ……。」
「せ、先生は狼の脚をお持ちだからですよ、私はこれでも早い方です……。」

 恨みがましい眼で僕の脚を睨みながら、彼は息も絶え絶えに後ろに続く。

「まあいい、お陰で丁度良い時間に着いた。」
「丁度良い?」

 独り言のつもりだったが、ウサギと同じ大きな耳は聞き逃さなかった。流石[さすが]と云うべきだろうか。

「そう、ご覧。もうすぐ月が隠れるよ。」

 僕たちの見上げた蒼い三日月は、さらさらと流れてきた雲に覆われようとしていた。
 薄い雲に続いて風に乗ってくるのは黒く厚い雲。

「先生、雨が降りそうな気配がしますけれど。」
「それでいいんだよ。さ、渡した小瓶を出して。」

 セパラックは訳が分からないといった顔つきで僕を見ながらも、素直に小瓶を取り出している。

「先生、此れを如何するんです?」
「まあ見ていたまえ。……そろそろだな。」

 丁度良い具合に、空から一滴の雨粒が僕の元へ落ちてきた。

 ぽたり。

「そら。」

 彼に差し出した碧い小瓶の中には、きらきらと輝く水。

「うわあ……。」

 セパラックから感嘆の声が漏れる。

「ミツヨレイと云うんだ。綺麗だろう。此処らでは、この丘にしか降らないのさ。」
「へえ……。」

 もう一度、感心したように息をつき、助手はぽかんと空を見上げた。

「おいおい、そんなに口を開けていても、旨味[おい]しくないぞ。」
「そんなんじゃありません!」

 あまり面白い顔をしているもので、からかってみると彼は顔を真っ赤にして怒鳴った。
 彼が大きな声を出すなんて珍しい。拳まで握りしめて。

「冗談だよ。さ、手伝っておくれ。」
「もう……。では、何をすれば宜しいんですか?」

 咳払い一つをして助手は瓶を手持ったまま、きょとんと首を傾げた。
 その動きに合わせて、耳がちょこんと跳ねる。
 あまりに可愛らしいその動きに、僕は微笑ましい気持ちになりながら説明を続けた。
「この瓶に、ミツヨレイを入れておくれ。ただし、他の雨粒は混ぜないようにね。」
「どう見分けるんですか? 私には全部同じ粒に見えるのですが。」
「それは、雨粒がミツヨレイの光に照らされているからさ。本物はほんの少し赤く輝いているだろう。」

 彼は僕の隣で、天に口づけるようにして身を乗りだし、金に近い眼を細める。

「ああ……、本當[ほんとう]だ。」
「これを実験に使うからね、上手にやってくれよ。」
「……はい、先生。」

 ミツヨレイの煌めきに魅入られたまま、セパラックはぼんやりとした表情をしている。
 僕は雫を集めながら、彼をここに連れてきたことをほんの少しだけ後悔した。